怪獣万歳!

muho2’s diary

小説を書いて暮らしている大倉崇裕です。怪獣が3度の飯より好きです。政治的な発言は控えていましたが、保険証廃止の動きで頭が沸騰し、しばらく叫き続けていきます。自分自身大病もしたし、12年間親の介護もしました。その経験からも、保険証は廃止しちゃダメ。絶対!

獅子と時代

  • 「獅子の時代」第50話を見終わった。次回、最終回である。最終2話については、ネタばらしの点もあるので、コメントはしないことにする。50話を見た時点で、既に、腰が抜けたような状態にある。以下、「獅子の時代」についての個人的メモ。
  • 「獅子の時代」の主人公は、苅谷嘉顕でも平沼銑次でもなく、あくまで「時代」である。歴史的に「無名」の二人は、時代を間にはさんで、左右に振り回される。結果、これといった偉業を為すわけでもなく、ただ翻弄され、歴史の中に消えていく。おおよそ大河ドラマとは思えぬ無力感。その残酷なまでの儚さが「獅子の時代」の魅力だ。「偉人伝」の趣きが強い「明治もの」にあって、このスタンスはやはり異色である。
  • 「時代を間に挟んで……翻弄され」と書いたが、それは第1回と最終2話における二人を見れば明らかである。第1回、パリ万国博覧会。会津である銑次はまだチョンマゲである。お家大事であり、自分の命を投げ出すことばかり考えている。対する嘉顕は薩摩のエリート。留学経験もあり、自由主義に目覚めている。名誉や家のために死ぬなどバカバカしいことで、これからの人間は自由に生きるべきと説く。それが約20年の月日を経て、入れ替わる。あれほど頭の固い武士であった銑次が、いくつもの敗走を経験し、信念に目覚め、「自由自治元年」の旗印の許、日本中を疾走する。対する嘉顕は、自分の理想にがんじがらめとなり、役人の狭い世界に閉じ込められ、ついには西南戦争において、両親と敵対、憲法草案問題も受け入れられず、目の前の幸せを掴みきれずに終わる。信念に生きる二人を見せる一方で、時代の残酷さ、冷酷さをありのままに描き出す。明治をこうした視点で捉えたドラマを他に知らない。
  • 立場の変化という視点で見るのであれば、「銑次・嘉顕」ともう一人、「伊河泉太郎」を忘れてはならない。「獅子の時代」の幕引きは、「銑次・嘉顕」ではなく、「銑次・泉太郎」で行われるのだ。会津、水戸の武士としてパリで出会った二人。その後、様々な反政府運動に身を投じつつ、己の理想に向けて突き進む。そして最終回。結局、時代は二人の立場をも変えてしまう。ラストの1シーンで、1年間見てきた多くの名場面が去来していく。20年前、二人はパリ博覧会会場に忍びこみ、薩摩の展示物を破壊したのだ。伊河泉太郎をここで登場させた山田太一は、やはり天才だった。
  • 今回の再見で、あらためて気づいたのは、案外、おもんが幸福であったこと。とにかく、「薄幸の美女」のイメージが強く、銑次といつも行き違いとなり、一緒に暮らせないまま死んでしまった……そんな印象であったのだが、けっこう長く、二人で暮らしていたのだ。思えば、「おもん」も時代の犠牲者である。もともとは大名の娘であったわけで、それが芸者となってパリ、アメリカを回り、旦那の囲いものなり、銑次を追って、横浜、樺戸……。以前にも書いたが、大原麗子といえば、私の中ではいまだに「おもん」なのである。
  • 「獅子の時代」についてはどれだけ語っても語り尽くすことはない。古今東西、あらゆるドラマの中でのベスト1という地位は、今回も揺るがなかった。
  • メディコムのキングジョーが来ない。なぜだー。