怪獣万歳!

muho2’s diary

小説を書いて暮らしている大倉崇裕です。怪獣が3度の飯より好きです。政治的な発言は控えていましたが、保険証廃止の動きで頭が沸騰し、しばらく叫き続けていきます。自分自身大病もしたし、12年間親の介護もしました。その経験からも、保険証は廃止しちゃダメ。絶対!

シンゴジラ

「シン・ゴジラ」素晴らしかった。始まった瞬間から最後まで、身動きもできず画面に釘付けだった。おかげで、ようやく治りかけていた腰痛が悪化したし、興奮を冷まそうと立ち寄った喫茶店ではコーヒーをこぼし、ウンコ斑色になったシャツで渋谷を歩くはめになった(この辺はほぼリアルタイムでつぶやいている)。
「シン・ゴジラ」については、製作が発表となった後も、まったくピンとこなかった。というのも、私はハリウッドの「ゴジラ」が大好きだったからである。あれだけのものを作られ、しかも世界各国でヒットした。ゴジラはもう日本のものから世界のものになった。続編の製作も決まっている。なのに、どうして今さら、「日本のゴジラ」を作る必要があるのだろうか。
だから、「シン・ゴジラ」でこんなにも感動したのは、このゴジラが日本でしか作り得ないものに仕上がっていたからだ。つまり、日本でゴジラを作る意義はあったのだ。もうこの一点だけで、私は「シン・ゴジラ」大好き。手放しで誉める。
内容も文句のつけようがない。私の夢は、「怪獣迎撃に特化した怪獣映画を見ること」だった。それがかなった。もうあきらめていたのに、かなった。この喜び、この感激。生きてて良かったとは、まさにこのことだろう。
公開から時間がたっているので、様々な評価がなされているが、「シン・ゴジラ」はまさに「平成の(1954)ゴジラ」だろう。過去にあったどの怪獣映画とも特撮映画とも一線を画す。その衝撃は、1954年に初めて「ゴジラ」を見た人々の驚きと同質のものに違いない。今まで怪獣映画に馴染みのなかった人たちが劇場に足を運ぶのも、当然だ。
さて、「シン・ゴジラ」、劇場で見ながら、私はとても奇妙な感覚を覚えていた。怪獣映画に代表される特撮映画は、一種独特の鑑賞眼のようなものが必要だ。それは、脳内補完力というか、見立て力というか、つまりは、特撮を特撮として見ない力だ。ミニチュア特撮に代表される過去の技術は、どれほど高度なものであっても、「ここは特撮だ」と判ってしまう。ゴジラが電車を踏みつぶすシーンも、身も蓋もない見方をすれば、「人が中に入って動かしているぬいぐるみがオモチャの電車を踏んでいる」わけなのだが、映画館でそんな風には見ない。いや、そういう風に見ている人もいるかもしれないけれど、少なくとも私は、「ああ、ここは特撮だ」と認識しながらも、同時に「でかい怪獣が電車を襲っている」と脳内補完をして、ハラハラ、ドキドキしている。怪獣に破壊されたビルからガラスが粉々になって飛び散るシーンを見ても、「ああ、ビルがぶっ壊された!」と思いつつ、「すごい、ビルのミニチュアにガラスを一枚一枚はりこんだんだ。すごいなぁ」と日本の誇る特撮技術に感動もしている。つまり、映画の世界に没入し、集中しつつも、どこかで素にかえっているのだ。今回「シン・ゴジラ」を見ていて、特撮に関して、素にかえるところは皆無だった。まさにゴジラが本当にそこにいる。町が燃え、人間が危機に瀕している状況をダイレクトに受け取ることができた。クライマックスのビル破壊も同様だ。「在来線」のくだりは、さすがに「ハッ!」としたけれど、集中が途切れることはなかった。これは今までの怪獣映画ではなかった感覚だ。これはやはり、妥協なき特撮の完成度、特撮パートの演出の確かさにある。樋口真嗣監督がとてつもない大仕事をやってのけた証明にほかならない。いや、本当にすごいと思う。シン・ゴジラのシンは、樋口真嗣のシンでいいと思う。
私は怪獣原理主義者だ。実はエヴァンゲリオンとか、よく知らない。「シン・ゴジラ」は、そんな私が見ても、怪獣映画の傑作だと断言できる。50年以上にわたって続いてきた怪獣の歴史は、この作品で第二のスタートラインに立つ。
あ、登場人物で魂を持っていかれたのは、余貴美子氏演じる花森麗子防衛大臣と國村隼氏演じる財前正夫統合幕僚長。